日本の新時代 ”令和”
2019.5.1(水)午前0時、元号は”令和”に、改まった。
[新天皇陛下、天皇として初めての(御言葉)]
出典AbemaTIMES
「自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、寄り添いながら、憲法
にのっとり、象徴としての責務を果たす」と、おっしゃった。
(11分)
*4日に、即位を祝う一般参賀が宮殿であります。
*国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」と
都内をパレードする「祝賀御列(おんれつ)の儀」は10月22日に予定されている
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徳仁様
(皇太子徳仁親王から転送)
| 今上天皇 | |
|---|---|
2018年(平成30年)、即位前の今上天皇
| |
| 即位礼 | 即位礼正殿の儀 2019年(令和元年)10月22日 於 皇居 宮殿(予定) |
| 大嘗祭 | 大嘗宮の儀 2019年(令和元年)11月14日・15日 於 皇居 東御苑大嘗宮(予定) |
| 元号 | 令和: 2019年5月1日 - |
| 内閣総理大臣 | |
| 先代 | 上皇明仁 |
| 誕生 | 1960年(昭和35年)2月23日(59歳) 宮内庁病院 |
| 諱 | 徳仁 1960年(昭和35年)2月29日命名 |
| 称号 | 浩宮(ひろのみや) |
| 印 | 梓 |
| 元服 | 1980年(昭和55年)2月23日 |
| 父親 | 上皇明仁 |
| 母親 | 上皇后美智子 |
| 皇后 | 雅子(小和田雅子) 1993年(平成5年)6月9日大婚 |
| 子女 | 敬宮愛子内親王 |
| 皇居 | 赤坂御用地 赤坂御所 → 皇居 御所 東京都千代田区千代田1-1 |
| 栄典 | 大勲位 |
| 学歴 | 学習院大学(人文科学修士課程修了) |
| 称号: 天皇 | |
|---|---|
| 敬称 | 陛下 His Majesty the Emperor または His Imperial Majesty (H.I.M.) |
| 皇室 |
|---|
天皇 徳仁
皇后 雅子 |
徳仁(なるひと、1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )。称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。在位中は今上天皇と称される[注 1]。皇室典範に定める敬称は陛下で、天皇陛下と呼ばれる[1]。
目次
人物
1989年(昭和64年)1月7日の父・明仁親王(当時)の皇位継承に伴い皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされた。
1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)現在まで、22回、天皇の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[2]。
略歴
皇孫時代
懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をしないなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父・昭和天皇が浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名した[注 2]。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
| 「 | 肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩浩たる其の天。苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、 其れ孰か能くこれを知らん。 | 」 |
—『中庸』第32章
| ||
皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて夫妻が14日間の公務訪米旅行の際に、皇太子妃が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて働く母親たちの子育て指針としても共感を呼んだ。 1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、東宮侍従の濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた[6]。両親の下で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王たちの様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した[要出典]。
1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学する。この頃から稲田悦子参与の指導でフィギュアスケートを始める(大学生の時にスピードスケートに転向)。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や古事記、日本書紀、万葉集、平家物語から比較神話学、文化史、文化人類学、時事問題などを幅広く学んだ。「帝王学」の一環と考えられる[7]。学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。
1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。
1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して、テムズ川の水運史について研究[8]。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には、昭和天皇の病気療養と皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
昭和時代の末より、親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女の歓迎パーティーに出席した際、外務省に勤める小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。
皇太子時代
1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇の崩御を受け、父・皇太子明仁親王が即位した。これに伴い、皇位継承順位が1位となり、徳仁親王は皇太子(法定推定相続人)となった。また、それまで家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
成婚までの経緯
詳細は「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」を参照
1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王・同妃久子が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った[9]。
こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設されたチッソに派遣されその後、社長に就任したことやメディアスクラムの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている[10]。
また、今上天皇と皇后は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との意向を宮内庁に伝えたとされる[11]。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた[12]、元外務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている[13]」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を今上天皇と皇后に紹介し歓談した。
翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議において徳仁親王と小和田雅子の婚姻が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には今上天皇の学友で元華族・男爵の明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後最も有力といわれた妃の候補には旧皇族で久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね前年には久邇宮家も当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が雅子への思いを捨てきれず破談となった[14]。
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHKが中継した結婚の儀の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた[15]。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。
成婚以降
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[16]。
2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場を訪れて2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で観劇して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平の天皇特例会見と同じ中華人民共和国による皇室の政治的利用と批判されることになった[17][18]。
2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[19]。
2016年(平成28年)1月28日、今上天皇がフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣で経済財政担当大臣が甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を臨時代行の形で執り行った[20]。
即位
2019年(平成31年)4月30日の実父・第125代天皇明仁の退位に伴い、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って翌令和元年5月1日、直ちに皇位継承し、第126代天皇となった。前天皇である明仁は同日、上皇となった[21]。特例法により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「即位礼正殿の儀が行われる日」とされ、共に同年限りで祝日扱いの休日となる[22] 。
年譜
- 1960年(昭和35年)2月23日、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。
- 1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園。
- 1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
- 1972年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
- 1975年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
- 1980年(昭和55年)2月23日(20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)を行う。
- 1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
- 1983年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
- 1988年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(人文科学修士)。
- 1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、明仁親王(当時)が践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位法定推定相続人)となる。
- 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿・松の間)。壺切御剣親授(表御座所・鳳凰の間)。
- 1993年(平成5年)1月19日(32歳)、妃に小和田雅子が内定。
- 同年4月12日、納采の儀(東京都目黒区南・小和田邸)
- 同年6月9日、結婚の儀(宮中三殿・賢所)
- 2001年(平成13年)12月1日(41歳)、敬宮愛子内親王が誕生。
- 2019年(令和元年)5月1日(59歳)、第126代天皇に即位。
引用ja.wikipedia.org
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